2014年5月25日(日)山火事によせて〜徒然なるままに・・・
私は今、家のポーチのひさしの下でこれを書いている。
今日も五月の終わりとは思えないほど、柔らかな風が心地好い。
どちらかと言えば、涼しい感じ。
アリゾナ州は、すでに夏休みに入っている。
ここら辺の暑さのピークは6月から7月にかけて、のはずなのだ。
しかし、ここ数年、だんだん涼しくなってきている。
地球に変化が起きているのだろうか。
世界の至る所で、異常気象と呼ばれる現象が起きているが、
もう、通常というものが通常でなくなってきているから、
通常と異常の境目も分からなくなって来ているような気がする。
今朝の時点では、ここに座ることは出来なかった。
5日前から起きている山火事の煙が、深い霧のように立ちこめていたからだ。
焚き火のような匂いが、否応なしに不安を燻らせていた。
私の家から見える岩山の向うで、アリゾナの宝石と言われる森林が燃えているのだ。
午後になって風が煙を払ってくれた。
空は微かに霞んで見えるが、穏やかな日曜の午後になった。
しかし、私が愛する森はあの向うで、うめき声をあげるように焼けているのだ。
「いつもと同じ日曜日」というフレーズは幻想に過ぎない。
私達は、常に二度とない今を生きている。
それは、生命体としての地球にしてもそうなのだ。
「Only constant is changing〜唯一不変なものは、変化である」
進化論を打ち立てたダーウィンの言葉。
細胞レベルから宇宙レベルに至るまで、一瞬たりとも変化しないものはない。
永遠というのは、時間の枠を超えた一瞬一瞬の刹那の内にある、とどめることの出来ない空間のことなのではないだろうか。
たとえば、ある人が肉体を去った時、時間という枠を超えて、その人はその人を愛する人が生きている間の一瞬一瞬の中に、永遠という空間を提供することになる。
その空間の中で、その人の魂は再生し、生き始める。
それが痛みを伴うものであったとしても。
あの焼けている森の中には、私が大好きな木があった。
エルマー君と名付けていた。
エルマー君もおそらくあの燃え盛る火に呑まれてしまったことだろう。
エルマー君は今、私の中に在る永遠の空間で生まれ変わった。
「死」というのは「生」の一部であり、永遠という空間の中の通過点なのだ。
私達は、生まれた瞬間から、死に向かって生きることを余儀なくされる。
ただ、普段は「死」というものを、意識から排除しているだけだ。
それが生きるということなのかもしれない。
野の花は、そこで芽を出したからそこで咲く。
ただそれだけのことだ。
しかし、その生きるという「ただそれだけのこと」は、数々の偶然と必然がおりなす運命を背負っている。
生きる、ということは、数限りない奇跡が繋がったことの結果として生まれた命を「ただそれだけのこと」として受け入れることだ。
今回の山火事で、オーククリーク・キャニオンの西の森はほぼ全滅したと思われる。
同じ親の木から生まれた種も、キャニオンの東側で芽を出したとしたら、きっと生き残っているだろう。
偶然というほんの少しの違いが、運命を変える。
私達も同じだ。
運命を恨むことは簡単だ。
運命を恨んだり、拒んだりしたところで、苦しむのは自分しかない。
大切なのは、運命を受け入れたところから「出発」することだ。
無限の可能性とは、自分という限界を受け入れたところから生まれる。
死も生も命の循環の一部。
自分という命の限界を受け入れ、二度とない一瞬一瞬を生きる。
それは、きっと、究極的には「愛」を体験することなのだろう。
焼けてしまった木々達のどれも、
生まれたところで
まっすぐに力一杯生きたにちがいない。
それが彼らにとっての「愛」の体験だったのだ。
後悔の余地もない。
死に様は、そのまま、その人、そのものの生き様に他ならない。
メメント・モリ・・・
セドナの森よ。
素晴らしい生き様を魅せてくれて、ありがとう。
ガイアの深い懐で眠り、たっぷり夢を見てください。
またいつの日か、目覚めるその時まで。