魂の永遠性
誰でも少なからず、死んだらどうなるのか、ということを考えたことがあると思います。
それはとてもセンシティブな話題で、口にできる相手、状況、色々あると思いますが、私は魂の永遠性を信じています。
不思議、と言われるような体験をしたことがある人は、とても多いと思います。
ほとんど、誰でもそういう体験をしているように思います。
ただ、その明確さ、記憶には個人差があって、
とてもはっきりしている人とそうでない人がいるだけなのではないでしょうか。
私も、個人的にはそういう話をしたことがありますが、公にしたことはありませんでした。
でも、今、人智を超えるような次元があり、私達は皆そこから来ているのだということ、
そして、だからこそ、この世で肉体を持って生きていることが、どんなに尊いことなのか、
今を生き、この美しい惑星、地球を選んで生まれてきていることの意味を
分かち合う時が来ているように感じます。
私は、「過去生」という言い方は、魂の世界での言い方ではなく
あくまでも、肉体を持って生きている人間の次元での言い方なのだと思っています。
というのは、魂の次元では、時間と空間は、
肉体を持っている私達には関知できない形で存在しているからです。
私は、17歳から幽体離脱が始まりました。
初めは恐ろしく、なんでこんな目に合わなくてはならないのか、と思い、
頭がおかしいと思われるのではないかと思い、誰にも言えませんでした。
それでも、これでもか、と思うほど、何度も何度も繰り返し起こり
(地球の人ではない人との出逢いもあり・・・ホントに頭がおかしいと思われるかもしれませんが)
とにかく、人間は肉体だけの存在ではないことを体感させられた、という感じです。
別の人生の夢というのは、一度、自分の今の肉体を抜け出して
その場に行って体験して戻ってくるような感覚があります。
以下、覚えているだけでもいくつかあります。
東欧で戦争にやぶれた国で娼婦をしていた、
エジプトで壁画に絵を描いていた、
長崎で芸者だった、
中国で高貴な人物の娼婦だった、
長野の商家の娘だった、
中国の西の方の国の后だった、
中世のドイツ近郊の小国の王さまに仕えていた思想家だった、
北欧で貧しい家の男の子だった、
イギリスの金持ちの家の女の子だったけれど、父がいつも留守でとても寂しかった、
チベットで子供の修行僧だった、
アイルランドでダンスをしていた、
ヨーロッパのどこかレストランをやっている30歳くらい年上の裕福な男と結婚したけれども、不幸で、若い恋人と駆け落ちしようとして、夫に殺された、
フランスで、貧しい絵描きだった、
今のロシアで、農夫の娘だった、
イタリアでリュートを弾いていた若者と出逢って結婚して幸せな家庭を作った・・・
などいろいろあります。
それから、未来生とも言えるような、近未来的な人物である夢もいくつも見ています。
地球ではないところに思える所での夢もあります。
自分が地球人ではない(つまりいわゆるエイリアン?)である夢も見ています。
でもね、だから何なの?って話ですよね。
それらは、私の魂の中で、今同時に存在していますが、ただ、今肉体を持って
今の人生にフォーカスしているので、
それらは夢、ビジョン、或いは幻想のように感じているだけなのだと思います。
肉体を持っていると時間は
昨日から今日、今日から明日というように直線的に流れて感じられるので
「過去生」もしくは「前世」という言い方をしますが
魂的には時間軸はないので、もしかして、今の人生を終えて、
やっぱりやり残したことや学び残したことがあって、
それが例えば、2千年前のエジプトが一番適している状況であれば
今生が終わってからそこに行くかもしれない。
今の人生も、今から見れば未来の人生を過ごしてから
来たのかもしれない。
日本では、「袖触れ合うも他生の縁」と言いますよね。
何度も生まれ変わっている、ということをベースにしたことわざです。
過去生や未来生になにをしたのか、が大切なのではなく
それらの夢やビジョンは
自分が今、生きていることをより深く理解し、この人生ですべきことを明確にするためのエッセンスにすぎないわけです。
セドナに来る方には、よく
自分は○○族だった、とか
○○族のシャーマンだったとサイキックの人に言われたから、セドナに来た、
というようなことをおっしゃる人がいます。
或いは、自分の過去生を知りたいから、サイキックセッションを受けたいという方も多くいらっしゃいます。
それはいいのですが、過去生を知ったり、思い出したりすることが大切なのではなくて、それによって今の自分にどう活かしていけるのか、が大切なことです。
魂の永遠性を信じる時
私達はお金をもうけることや、名声を得ることが目的で生まれてきているのではなく、なにをしようとも、どんな状況にあろうとも
自分の魂を磨くために生れてきたのだということが理解できると思います。
自分の魂を磨くために何ができるのか。
それは一人一人違った答えを持っていると思います。
ただ、究極的には、言えるのは
私達はすべて「愛」を学ぶためにここにいるのだ、
ということなのではないでしょうか。
前世の記憶を持っている子供たちの多くに共通しているのは
なんらかの恐ろしい形で命を絶たれ、転生を選んで来ていることが多い、ということのようです。
怖れを手放し、愛を選ぶ選択をすることを学び、命の尊さを伝える役目を
その子供たちは果たしているように思えます。
魂が永遠であったとしても、
肉体をもっている
「私」
は、過去にも未来にもなく
この大宇宙の中でただ一つの存在として
愛を体現するために生れて来たのだ、ということ。
だからこそ、
今
この瞬間を
どう生きるか、が大切なのです。
自分の命に乾杯!
ひとつひとつの命の奇跡に
ありがとう!